こんにちは、わんわん電鉄です。
急に暑すぎた日々が終わり、突如として涼しい日々が始まりましたね。というか、むしろ寒すぎる日々が始まったように思います。
私としては、真夏に「夏らしいこと」をすることが叶わなかったので、もう少し暑すぎる夏を堪能したかったなぁという気持ちがあります。
さて、最近の私はというと、少し自分に物足りなさといいますか、「自分がやりたいこと(なにをやりたいかは分からない)を実現したい!」という欲を感じるようになってしまいました。
これまでの6年間は、ある目標に向かって、2~3年周期で取り組む内容を変えつつ、なんとかやってきていましたが、それは、とにかく不安定で、先が見えない状態にありました。安定してないからこそ、目先の目標や利益にしがみつくことに必死で、自分のことについて物足りなさを感じることはありませんでした。
そして、今年、ついに、ありがたいことに、安定した、先が見通せる状態になりまして、今はホッと一息ついているところです(当初の目標は、断念したのですが、そのことは、今となっては「正解」だったなと思っています)。
そういう状態になったことは、本当に、心の底からありがたいことではあるのですが、その一方で、先が見えて、自分の人生設計に大きな不安を感じることも少なくなったからか、今度は、自分自身に少し物足りなさを感じるようになりました。
そのように感じてからは、自分に何が足りないんだろう?と考えるようになりました。自分に何が足りないか分からないのに、自分がやりたいことを実現したいと思うなんて、なんだか変な話しですよね。
そうです。実は、私、ずっと「空っぽ」なんです。
この「空っぽの自分」にどう向き合えば良いのかについて、自分語りをしながら、考えてみたいと思います。
目標を実現して、空っぽな自分に直面する
先ほど述べたようなことは、実は、高校入学時からずっと感じていたことでした。
当時、第一志望の高校に合格して、ようやく自分の学力的な立ち位置が明確になって、ホッとしていました。実は、私が物心ついたときから、母親や祖父母に「○○(私)には、××高校に入学してほしい」と言われていたので、その家族の希望を実現することが、当時の私の目標であり、アイデンティティの一つとなっていました。
そして、その目標が実現して、しばらく経った頃、ふと思ったのです。
「なんか変わり映えしない日々に飽きた。こんな現状を打破したい。」と。
当時の私は、中学時代から好きなバンドや俳優を追いかけ続けていたのですが、なんか物足りないといいますか、日々につまらなさを感じていました。
今思えば、まさに「空っぽな自分」に気づいていたのだと思います。
(当時、自分の席の周りに座っていた子達が、よく「アイデンティティが崩壊する!」と叫んでいたことを覚えています。それも、私と同じで、高校入学という目標を達成したことに由来するのでしょう。加えて、その子達によれば、アイデンティティの危機を感じた理由として、「(進学校だったということもあって)中学では、優秀な生徒としての立ち位置を得ていたけれど、高校ではみんなが優秀なので、自分のアイデンティティが崩壊する!」と言っていました。私的には、そのことについては、割とどうでも良かったです。)
確かに趣味はあるけれど、それは自分の目標になるような趣味でもないし、主体性が求められるような趣味でもないわけです。ただ受け身で、享受するだけの趣味だったわけで、どうにも自分自体は、空っぽだったんです。
当時はこのように言語化できなかったのですが、直感的に分かってはいたようで、今度は、主体的に活動を起こすようになりました。それが、高校で部活動を立ち上げようとしたこと、それから、生徒会役員に立候補したことでした。
しかし、これがとことんうまくいかなかったのです。高校は、本当に古い「ムラ社会」だったので、少しでも目立つことをしたり、生徒達の(よくわからない感性による)琴線に触れることをすると、徹底的に潰されることになります。実際、かなり痛い目に遭いました。そうして、自分で主体的に活動することについて、自信を失ってしまいました。
他人に依存したことによる失敗
自分自身が空っぽで、集団生活において主体性をもって活動することもできないとなった私は、今度は、プライベートを充実させようと考えました。ここでのプライベートとは、他者から鑑賞されない、人と競争することもない、ただ自分だけのための空間です。
私生活に何か大きな変化を起こせば、このつまらない現状を打破できると考えたのです。その方法が、恋人をつくる、というものでした。恋愛は、日々を充実させてくれるだろうと思っていたのです。
私は、「ムラ社会」で干されてしまった以上、自校には、当然に友達はいなかったのですが、他校に恋人を作ることならできるかもしれない、と思ったのでした(本当にバカですね・・・)。
そして、そう思ってから1ヶ月もしないうちに、「運命的な出会い(笑)」があって、運良く他校に恋人ができました。それはそれは、精神的に充実しました。やはりこれまで経験したことのない日々を過ごせているわけですから、確かに現状打破は、実現できたわけです。
しかしながら、相変わらず「空っぽな自分」は、存在し続けたのです。
交際を始めて2ヶ月くらい経った頃、恋人とよく口論をするようになりました。
理由としては、恋人が、私が通っている高校にやたら仲良くしている異性の友達Aを作って、私に内緒でコソコソSNSでやりとりしたり、コソコソオフ会をしていると知ったからでした。相手は、一貫して「やましいことはない」「恋人にしたいのは、君だけ」などといっていましたが、私はそれを信じられませんでした。なぜなら、その恋人の「友人A(浮気相手)」が、校内で頻繁に私を見に来ていたこと、私の荷物にいたずらをしたこと(現行犯だった)、また、Aと恋人がSNSでいかにも恋人かのようなやりとりをしていたのをみたからでした。それゆえに、私は、その人たちのことが何も信じられなくなりました。
恋人からは色々と言い訳をされ、毎日のように、深夜に、何度もスクロールするほどに長いLINEが来ました。当初は、仕方なくその相手をしていました。もちろん、朝まで起きてやりとりをしているので、毎日のようにオールをし、学校では寝る日々が続いていました。それを2週間くらい続けていくうちに、自分の生活や学業がおざなりになっていることに危機感を感じるようになり、次第に、不誠実な相手に誠実に対応することで自分を削っていくことに馬鹿馬鹿しさを感じるようになってしまいました(恋愛、向いてないですね・・・)。また、本当の意味で「自分磨き」の方が大切だ、と思うようになりました。
結局、交際して3ヶ月経つ頃には、私の方からお別れしました。何度もすがりつかれましたが、何度も断りました。後々になって分かったのですが、私の方がAよりも優しかったようで、今思えば、相手にとって都合の良い存在だったのだろうと思います(ちなみに、その後元恋人とAはスグに交際し始めましたが、1年経たずに破局したようです。私よりはマシでしたね)。
この経験を通じて、やはり他人という存在に自分の私生活の充実感を成否を委ねてはいけないと思いましたし、やはり「空っぽな自分」に根本的に対処しなければ、日々の生活は変わらないのだということ、「空っぽな自分」ゆえに相手に都合良く扱われるのだということを痛烈に感じました。
「空っぽな自分」問題は、大人になっても続く
「空っぽな自分」問題は、かなり根深いものだと思います。
私自身、かの一件以来、自分なりに日々を充実させるよう努力してきたのですが、なかなか自分の内面までもは充填されたような気がしませんでした。『でも、いつかこんな自分を打破できるはず。』と思って、なんとか頑張っていました。
しかし、大学生になっても、全く変われませんでした。
一応、当時の自分としては、「興味のある学問に没頭する」「論文・レポートを書く」「一人で物事を密やかに分析し、考える」、すなわち、研究に取り組むということが自身の「本当の」アイデンティティであり、「本当に」やりたいことなのだ、と思い込んでいました。そして、それこそ、「空っぽな自分」を解決する唯一の手段だと信じていました。
確かに、数年ぶりにやりがいのあることを見つけて、多少の自分らしさや日々の充実感を取り戻せたような気がしたのですが、それでもどこか自分に欠けたところがあると感じていました。
そうして、心のどこかにモヤっとしたものを抱えながら、大学生活を過ごしていました。
あるとき、幸運なことに、「鈴井貴之」という存在に出会いまして(敬称略ですみません)、自分のアイデンティティ、自分の本心の方向性を取り戻すことができました。
※詳しくは、過去記事をご覧いただけますと幸いです。
wante2.hatenablog.com
ただ、ここで「よかったね、チャンチャン・・・」とはならず・・・。
「空っぽな自分」を無視した(1回目)
『ようやく自分を取り戻したぞ!イェイ!』と喜んでいたのもつかの間、数ヶ月後、再び「空っぽの自分」に直面することになりました。それは、目指していた目標を達成し、そのステージでやるべきことを全て終え、新たな道を探すべき時でした。
鈴井さんのおかげで、自分を取り戻せたことには間違いありません。しかし、それは、当時の私には、目先の目標があったからこそのものであり、その目標がなくなってしまったいまや、取り戻した自分をどう動かしていけばいいのか、さらには、取り戻したアイデンティティの方向性は明らかだけれども、それをどう具体化していけばいいのかが分からなくなっていました。
本来、そのときじっくりと「空っぽの自分」に向き合っていけばよかったのですが、突破口を早急に見いだせなかった私は、取り急ぎ自分を忙しくさせることで、なんとか「空っぽな自分」に気づき始めた自分をごまかそうとしていました。すなわち、当時は、ありがたいことに、自分自身が求められている仕事が割とあったので、それに応じ、日々を忙しくすることで、「空っぽの自分」を充実させることができるだろうと思ったのです。もっとも、それは「空っぽの自分」から目をそらすことに変わりなかったわけですが・・・。
「空っぽな自分」を無視した(2回目)
結局、その忙しい日々は終わりを告げ、強制的に「空っぽの自分」を向き合う時間(無職期間)に突入しました。ただ、それと同時に、自分のキャリアプランをなんとか立ち上げて、自分の生活をたちゆくものにしていく必要もありました。
そこで、私は、今度こそ「空っぽな自分」から逃げるためではないものの、その目標を実現しなければという想いに駆られていたので、目標のためにひたすら活動する日々を送ることにしました。それゆえ、またもや、いったんこの問題から離れることになりました。
そして、上記の問題も解決し・・・今に至るわけです!
そのキャリアプランを立ち上げるという目標を実現した今、割と時間に余裕があるのですが、正真正銘、今度こそ「空っぽな自分」に強制的に向き合わなければならない時間なのです!
ある意味、私は、幸運かもしれません。「空っぽな自分」に向き合わず、色々とごまかして、何度も無視してきたにもかかわらず、「空っぽな自分」に向き合うための時間を偶然得ることができたのですから。二度も三度も逃してきたチャンスが、四度目も巡ってくるなんて、なかなかないですよね。だからこそ、このチャンスを使って、自分と向き合おうと思いました(だからこそ、このような記事を書いているのです)。
「空っぽな自分」にどうアプローチするか
さて、だらだらと自分語りをしてしまいましたが、ここからが本題です。
私は今、20代なのですが、どうしたら「空っぽな自分」を充実した自分にすることができるでしょうか。
先述の失敗経験をしていなければ、恐らく、恋人をつくること、結婚、子どもをもつこと、などと答えるような気がします。すなわち、自分以外の存在を自分のテリトリーに取り込んで、世間的な「ラベル」を得ようとする(「彼氏・彼女もち」「既婚者」「子持ち」など)というわけです。しかし、これでは、「空っぽな自分」は、そのまんま残ってしまうわけです。だからこそ、これからは、根本的にアプローチしていきたいのです。自分なりにですが、その方法を考えてみました。
①自己分析をする
ありきたりですが、己を知ることが大切かと思います。
個人的には、人間、生まれてきてからずっっっと「空っぽな自分」だった、という方は少ないのではないかと思っています。もちろん、家族や地域的な制約から、生まれたときから自由意思をもつことを許されなかったという方もいらっしゃるかもしれません。しかしながら、日々の生活のなかで、「コレ楽しいな」「コレ面白いな」と思ったことは、少なからずあると思うのです。その点に、「充実した自分」を見つける芽があると思います。
よくある「小さい頃に好きだったこと・趣味だったことは?」という問いに答えるというわけです。
ちなみに、私は、何かを創ること(絵を描いたり、漫画を制作したりすること)、何かイベントを企画すること、リアルタイムで目の前の人を楽しませることが好きでした。このことについて、ただ「つくる」ことに、新しいものを創り出す楽しさ・ワクワクを感じているだけでなく、それと同時に、受け手を楽しませたい、喜ばせたいという気持ちもあるのです。だからこそ、できる限り、創ったものを発信できるといいなぁと思っています。
また、ブログ執筆のような発信から受け取るまでにタイムラグのある創作行為だけでなく、リアルタイムで目の前の人に届けることができるような創作行為にも同じくらいの「量」で取り組みたいと思っています。裏方としてコツコツ創りだすだけでなく、人前に立つ表現者でもありたい、というわけです。
このように、単に「○○すること」ということから、その本質は何か?どのようにそれに取り組めば良いのか?といったことまで深く考えていくと、自分自身のアイデンティティに触れることができるような気がします。
②好きなものにトコトン触れる・感じる
私は、色々と好きなものがありますが、その中でも音楽を聴くことが好きです。近年は、堂島孝平さんの音楽をよく聴いています。堂島さんの音楽からは、色々と感じるものがあるのです。聴き始めた頃は、それがよく分からなかったのですが、聴いていくうちに、それが何なのかが分かるようになってきました。それは、堂島さんという存在、そして音楽は、私の創造欲をかき立てる、ということでした。そして、この発見が、自分のアイデンティティをより具体化するのに非常に役立ったと感じています。
詳しくは、こちらの記事をご覧いただけますと幸いです。
wantetsu.hatenablog.com
今、「空っぽの自分」でも、好きというエネルギーを向けることができているものがあれば、それにトコトン触れて、それをトコトン感じるのが良いと思います。それは、その対象物が、自分に足りないものをもっている可能性が高いからです。
③取り組むことが楽しみになる趣味をつくる
当たり前のことかもしれませんが、これが意外と難しいんです、私としては。
自分がまだ空っぽではなかった頃、それは小中学生の頃だったと記憶していますが、毎日学校にいるときから、『家に帰ったら、○○しよう!』といつもワクワクしていたことを覚えています。例えば、小学生の頃は、『家に帰ったら、漫画を原稿用紙に描こう!』とか、中学生の頃は、『家に帰ったら、好きなバンドのロゴのプラ板をつくろう!』といったものでした。毎日、放課後が充実していたように思います。
ただ、高校に入ってからというものの、そういった趣味が急になくなってしまったんです。それは、当時の学校生活が辛いもので、自分のアイデンティティが拡散しつつあったこと、それゆえに、自分が主体的に取り組める趣味を没頭する気力を失ってしまったからだと思います。
なにか、毎日考えたくなるような趣味を見つけられると良いのだろうと思います。
④義務感から切り離して考える
好きなこと、趣味を見つけたら、それを義務感から距離をとって考えることが大切だと思います。
例えば、ブログを始めるにしても、「収益化できるようにしなければ」と思わないほうがいいということです。好きなことで生計を立てられる人は、羨ましいなと思います。しかし、それはそれで、苦労を伴うはずだということは、容易に想像がつきます。実際、漫画家として活動するにしても、売れる作品と描きたい作品が本人にとって一致するとは限らないわけです(『バクマン』の新妻エイジのように、直感的に売れる作品を描けるならば、それは理想的ではありますが、それはなかなか・・・)。「やりたい」という純粋な欲求と、「~しなければならない」という義務感は、一般的な感覚であれば、必ずといっていいほど、衝突するものだと思います。だからこそ、なにか趣味や取り組みたいことを始めるときには、「うまくならなくちゃ」とか、「人に見せられるようでなければ」といった、様々な「ねばならない」「べき論」は、排除すべきと思います。
では、どこに趣味の着地点を見つけるか、といいますと、やはり本人の充実感だと思っています。例えば、ギターを始めるにしても、簡単な曲をひたすらやるのでもいいし、難しい曲で四苦八苦するのでもいいわけです。どこに自分が心地良い・満足できると感じる点を見出すのかは、人によって違うと思います。すなわち、趣味の取り組む程度、難易度、達成度などをどう考えるか、については、人それぞれでいい、と思うのです。
⑤無力感を捨てる
正直なところ、私は、この点が一番重要だと考えています。
私自身、「空っぽな自分」になってしまった理由として、自分が満たされていると感じる活動(=私の場合、自分から何かを創り出す活動)において、無力感を強く感じてしまったから、というものがあると感じています。
実は、私は、幼少期に、漫画家を目指していました。しかし、描いても描いても絵が上達する気配もなく、また、ストーリーを上手に構成できる感じもしませんでした。中学生になった頃には、現実社会に失望感や疑問を感じるようになり、自分が創作した想像世界とそれが乖離していることに耐えられなくなったり、また、現実が想像世界のようになるわけではないという諦めを感じたり、さらには、自分が架空の世界とはいえ、架空の主人公の生殺与奪の権を握ることに対する畏れを感じるようになったりしました。加えて、当時投稿していた漫画雑誌では、私と同じ世代の子が鮮烈なデビューを飾っていて、非常に強い挫折感を感じたこともありました。それゆえに、端的に言えば、自分が漫画を描いてもしょうがない、どうにもならないという無力感を感じてしまったのです。
そういう「無力感」って、一度感じてしまうと、その後も、新たな活動に取り組んですらいないのに、「自分なんかがやってもどうせダメだし・・・」と感じてしまいがちだと思います。そのように無力感に先立たれてしまったがゆえに、自分のやってみたいこと、やりたいことに手を出すことができずにいると、どんどん自分が空っぽになっていってしまうと思います。
だからこそ、この「無力感」を自分の中から取り除くことが必要不可欠になると思います。
それでは、それをどう取り除くか?
私も、この答えについては、未だ「コレだ!」と思えるようなしっくりくるものに出会えていません。考え中です。
ただ、個人的には、「別ルートからいくことで、自分らしく活動する」ということが有効なのかなあと思っています。
例えば、私の場合、漫画を再び描き始めるにしても、現実世界と別の想像世界を描くような、一般的な恋愛漫画やファンタジー漫画、ギャグ漫画を描くのではなく、自分自身の過去(現実)を漫画にしてしまうのもアリなんだろうと思うのです。この分野は、こうでないとダメ!こうするのがセオリーだ、一般的だ、と考えるのではなく、自分の適性に合わせて、少しずつアレンジして、自分に良いようにしていくこと、自分らしく工夫していく気持ちをもつことが大切なんだろうと思います。
このような「自分らしさ」を追い求める気持ち、工夫したり、別ルートを見つけたりする気持ちこそ、かつて感じてしまった「無力感」を乗り越えるものとなるのではないかと思います。自分が先駆者になる!と、(勝手にでも)思うくらいでちょうどいいのかもしれません。
まとめ
だらだらと自分語りをしてしまいました。
結局のところ、私が最も伝えたいことは、自分自身を見つめて、「空っぽな自分」を感じてる場合には、自分という対象から逃げずに向き合う勇気をもつことが重要だ、ということです。別に「空っぽ」なままでもいいじゃないか、と思われる方もいると思います。しかし、「空っぽ」な自分をぶら下げて生きるよりも、自分が何者かが分かっていて、自分が楽しいと思うことを理解し、実現している方が、日々の暮らしが確実に充実していくと思うのです。それこそ、「人格の完成」「内面の陶冶」とよばれるものに一歩でも近づけると思うのです。
私自身、「空っぽな自分」と向き合い、少しでも自分の内面が充実するような手段を考え、現実化していけるよう頑張っていこうと思います。
〔余談〕「空っぽな自分」になったきっかけを見つけた話
先ほど、人は生まれてからずっと「空っぽな自分」のままでいるわけがない、ということを書きました。もっとも、日本国民全員に話を聞いたわけではないので、確証があるというわけではありませんが、少なくとも、私の場合はそうです。
では、「空っぽな自分」になってしまったのは、いつなのか?ということを考えました。確かに、高校入学時には、「空っぽな自分」の存在に気づいていたように思います。そして、アイデンティティが拡散したのも、目標を達成してしまい、新たな目標を見つけられなかったこと、高校時代の環境の悪さにあると自覚しています。ただ、そのように、「空っぽ」になったり、アイデンティティが拡散したりするきっかけは、中学時代から、既にあったようなのです。
まず第一に、漫画家になることを諦めたことです。それは、先ほど書いた理由によるものです。
第二に、中学生になって、みずから志願した生徒会活動に打ち込み始めたときに、自分の中のなにかが変わってきたようなのです。
変わったこと①:人格・性格
実家の荷物を整理していたら気づいたのですが、まず第一に、当時の私は、人格を変えようとしていたのでした。
中学1年生のときに使用していた手帳に挟まっていたメモ帳には、次のような趣旨のことが書いてありました。
「変人と言われないために。
①大きい声で高笑いしない
②下ネタを言わない
③ふざけない」
地元の公立中学に進学したのですが、その中学は、2つの小学校から構成されていることもあり、はじめましての同級生も半分くらいいました。記憶の限りでは、確か、そのようなはじめましての同級生から、色々と私の挙動をからかわれたり、馬鹿にされたりしていました。
当時の私は、それを恥ずかしいことと思うとともに、中学生なんだから、もっと大人っぽくあるべき!と思い、このふざけた自分を変えようと決意したのでした。
今思えば、このことが、本来の自分(アイデンティティ)を見失わせるきっかけになったと思いますし、自分を無にすることに繋がったと思います。
変わったこと②:「滅私奉公」に生きがいを見出した
中学時代は、生徒会活動にとても打ち込んでいて、生徒会長も務めました。
もともと、人のために何かをすることが割と好きだったこともあり、学校や地域を良くしたいという思いから、生徒会役員に立候補したことを覚えています。
最初こそ、自分の好きなこと・得意なことを通じて、生徒を喜ばせたり、学校をよりよくしたりするんだ!と思って、色々と取り組んでいました。しかし、生徒会活動でいろいろな生徒の意見に触れるたびに、「私利私欲で活動しているに過ぎない」「生徒会費泥棒」「好き放題やってるだけ」などと言われるようになりました。
私自身、国の政治や歴代の生徒会長に対して、そのように感じたこともあったので、そのような意見を聞いて、「その通りだ。自分のことが、他者(公益)に先行するようではだめだ」と思うようになりました。
そして、生徒会活動2年目に生徒会長になったときには、滅私奉公の精神を自分の中に取り込むようにしました。具体的には、自分のやりたいこと・関心のあることから物事を考えるのではなく、目の前に広がっている出来事・問題・課題から、物事を考えるようにしていました。たまたま、自分のやりたいことと解決すべき課題がマッチすればいいな、くらいの気持ちで、とにかく公益性重視!という気持ちで生徒会活動に取り組んでいました。
そのように滅私奉公の精神で活動し続けた結果、生徒会長を退任する頃には、誰からも先ほどのような批判を言われなくなりました。むしろ「生徒会というものを見直した」と、生徒達のみならず、教職員、校長先生にまで言われました。
このことは、今の私にとっても、とても誇りに感じることではあります。しかしながら、滅私奉公の精神をもつことに生きがいを見出した期間があったために、自分が心からやりたいと思うこと、くだらないし、人のためにもならないけど、楽しいことなど、純粋に趣味的な活動に取り組むこと、つまり、楽しいことが好きな自分に対して罪悪感を感じるようになってしまったのです。
また、物事に取り組む姿勢について、小学生の頃までは、自分の中の「ワクワク感」や好奇心ゆえに、能動的(自発的)に物事に取り組めていたのですが、中学生の頃は、社会的に必要とされているか、なにか課題となっていることがあるかという視点から、物事に対して受動的にしか取り組めなくなってきていました。なんというんですかね・・・これまでは、0→1のことができたのに、それ以降は、マイナスをゼロにすることしかできなくなっていたということかもしれません。すなわち、なにかしらの課題がないと、行動できなくなっていたのです。
そのこと自体、決して悪いことではないと思います。マイナスをゼロにして、社会を少しでも良くしたいという思いで、ボランティア活動に邁進される方もいると思いますし、その方々は、大変素晴らしい志を持っていらっしゃる方だと思います。
しかし、私の場合、それだけでは、自分が「空っぽ」になったような感覚に陥るようなのです。滅私奉公的な活動には、あまり向いていないのかもしれません。
ただ、最初に述べたとおり、元々人のためになにかをすることが好きなので、ボランティア活動が嫌いなわけではありません。とはいえ、自分の感性や意見を自発的に表現する機会がゼロになると、だめなようで・・・。両方できるのが一番望ましいようなのです。
当時の私は、生徒会活動に夢中になりすぎて、そして、信託してくれている生徒達の視線を意識しすぎて、そのことに気づくことができず、むしろ、自由意思を持つこと自体を悪として捉えていたのでした。それゆえに、自分の内面から出てくる欲求を無視し続けていったのです。
変わったこと③:謙虚さをはき違えて自己否定をくり返した
先ほど述べたように、私は、生徒会に対する様々な批判や意見に真正面から向き合ってしまっていました。ヘンに生真面目だったんですよね。ただでさえ、周囲の目が割と気になる方だったのに、生徒会役員として人前に出るようになったことで、さらに、周囲の目を「気にしなければ!」と思うようになってしまったんです。やはり、「みんなに信頼されて、みんなから好かれる生徒会長にならねば!」と意気込んでしまいました。
生徒からの批判や意見は、生徒会という団体のみならず、個人である私にも向けられていました。当時は、TwitterやLINEがとても流行っていた時期で、私の見えないところで私の悪口がたくさん書かれていたそうです。確かに、Twitterで、私の実名つきで、性格が悪いだとか、しょうも無い人間だとか書かれていたのを見たことがありました。
だからこそ、そういった批判や意見を受けて、自分はひたすらに謙虚であるよう自分を律していました。人前に立つからこそ、謙虚に、腰を低くせよ、と自分に命じていたのです。
ただ、両親や先生に依れば、私自身、自慢をしたり、傲慢な性格だったりしたことはなかったそうです。むしろ、もともと腰が低い(加えて、気が弱い)方なのに、さらに謙虚さを自分に求めるようでは、おかしいという感じだったそうです。
実際、今思えば、私は「謙虚さ」を変な方向で解釈し、実践していたと思います。すなわち、当時の私は、「謙虚さ」を求めすぎるあまり、自分をひたすらに卑下していたようなのです。これは、今になって気づいたことだったのですが、当時の私は、自分らしさや、自分が求めうる幸せを全否定し、周りよりも劣る存在だと言い張り、まるで自ら奴隷になることを志願していたかのようでした。そのように、謙虚さを自己卑下とはき違えた理由として、私自身が公に自己卑下をすることが、そういった悪口を書く人々に効く、と思っていたこともあると記憶しています。
これにより、確かに周囲の生徒の批判は減っていきましたが、自分の中の自己肯定感や自己効力感もともに減っていきました。
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そういうわけで、「空っぽな自分」になったきっかけは、中学時代の生徒会活動で、真面目な人間になれるよう、滅私奉公の精神をもつよう自分で自分を変えたから、また、謙虚さをはき違えて自己卑下をくり返したからでした。
高校時代に「空っぽな自分」になったり、アイデンティティが拡散する下地は、中学時代に既に完成していたわけです・・・恐ろしい。結局は、自分が自分で招いたことだったのだと実感しています。
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ちなみに、当時の私も、そして、今の私も時折思ってしまうのですが、自分が「あるべき姿」ではないときに、現在の自分を否定して、なんとか自分を「あるべき姿」にしようとヘンに追い込んで、努力してしまうのです。結局のところ、「あるべき姿」なんてものは、世間が作りだした「ネタ」にすぎないにも関わらず、なんだか世間の視線が気になって、世間の感覚に自分を合わせるようにして、本来の自分を取り除こうとしてしまうんですよね・・・。
もちろん、自分を変えたことによって、生涯の伴侶に出会えたとか、自分の理想とする職場にめぐりあえたとか、そういういい話もあると思います。しかし、私の場合、自分を変えようとすると、かえってロクなめに遭うのです。このことについては、記事にするととっても長くなるので、他日を期したいと思いますが、本当にろくな事がありません。
二十何年も生きてきてようやく分かってきたことですが、世間で求められている人間になろうとする→自己否定→以前とは少し違った自分になる→嫌なことに遭遇する→傷つく→結局もともとの自分で良いんだと開き直る、の繰り返しでした。行き着くところは、「自分らしいことが一番だ」ということです。世間や相手に無理に合わせようとすることは、セルフネグレクトであるともいえるかもしれません(言い過ぎですかね?)。つまり、自分を世間に無理矢理合わせようとしたり、ヘンな「べき論」に妄信的に従ったりすることは、自分の本来のアイデンティティを消し去ることであり、自分という家を「空き家」にするようなものであるといえるでしょう。
もっとも、国内の法令・規則を守ること、一般的かつ普遍的な倫理観をもつこと(信義則原則のようなもの、人を傷つけないこと、嘘をつかないことなど)は、絶対的に必要だと思います。ただ、それさえ守っていれば、あとはどう生きようが、寒い親父ギャグを言おうが、高笑いをしようが、セルフツッコミをしようが、草木に話しかけようが自由なのだと思います。自己の人格・性格を受け入れ、それに連続性をもたせることこそが、自分を「空っぽ」にさせないための第一歩なのだと思います。
まぁ・・・今になって振り返ってみると、私にとって生徒会活動は、漫画家という夢に挫折したときに、ちょうどよく「空っぽ」になった自分にスッと入り込んできたものだったのだと思います。ただ、その結果、自分のやりたいことのみならず、性格やアイデンティティについても「空っぽ」になってしまったわけですが・・・。
我ながら、自分の人生を振り返ってみると、色々あったなぁと思います。