わん鉄沿線

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「求める人物像」と自身のアイデンティティ

こんにちは、わんわん電鉄です。

私は、本当は24卒だったのですが、諸事情で今年の2月(修論提出後)から就活することになりました。現在、絶賛就職活動中です。

 

もともと私は就職活動が嫌いです。

学部生の頃、4社ほど受けましたが、3社は書類落ち、1社は圧迫面接で落ちました。成功体験は、ひとつもありません。そのため、就活には非常に苦手意識を抱いています。

 

 

この記事を書いているのは、2社のESを出し終わった朝です。

本当は一刻も早く寝なければいけないのですが、どうしても書きたい!と思い、書いています。我慢は毒です。

 

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実は、就活を始めてまだ2ヶ月ほどですが、既に何度も発狂しかけています。

就活は、本当につらいし、ストレスです。指導教員に怒られることよりも、修論の提出期限が迫ってくることよりも、ちょっと生意気な後輩にいじられることよりも、大学受験よりもストレスです。

もっとも、家族は、私の現状に寛容です。まったくもって、就職をせかしたり、無職であることを怒ったりしません。

 

 

ストレスの原因

どうしてこんなにストレスなのか・・・

それは、就職活動においては、自分という「商品」を企業に売り込む必要があるわけですが、相手のニーズに合わせた商品を提供しようとすることが苦痛だからです。

 

 

この「ニーズに合わせるということ」は、社会一般で非常に重要な取り組みだと思います。ただ好き勝手にやっていては、誰も評価してくれませんし、好きに商品を作って売ったところで、あまり売れることはないでしょう。

しかし、このことは、商品という(有形無形問わない)モノだからこそ、実践すべきことであると思います。モノには、感情も意志も人生もありません。モノに対して、作り手の想いが込められている場合もありますが、あくまでも、作り手とは切り離された存在です。自分≠モノ(商品)だからこそ、うまくニーズに合わせていくことができるのであり、そのメリットも大きいと思います。

 

 

ところが、人間の場合はどうでしょうか。

就職活動においては、「求める人物像」というニーズがあります。これに合わせていく必要がある、ということは、私が手にした就活本や、ネットで見たサイト、大学のキャリアセンターの人も言っていたことです。しかし、「求める人物像」に合わせにいくことは、ニーズに合わせた商品をつくることと本質的に異なることがあります。それは、人間には、感情、意思、人生があることです。自分の内面、パーソナリティを本来とは違った意味で解釈したり、それに違った方向からスポットを当てたりすることは、自身のアイデンティティを抑圧したり、あるいは、攪乱させたり、最悪の場合、自分を失ったりすることにつながると思います。

 

 

世の中の就活生は、これをうまくやってのけてるんですかね・・・?。

 

もちろん、本音と建前のように、企業に見せる強みと、自分で理解している強みが違うことは、社会人になる上で当然かもしれません。しかし、就職活動は、それが簡単にできるほど、甘くないと思います。実際に、面接では、ESや適性検査の結果に表れた強みが、相手の本質であるかどうかを見極めるような質問を投げられることもあると思います。

 

 

仮にうまく取り繕って入社できたとしても、採用担当だった社員に全然面接の時と違うと言われてしまったり、ミスマッチが起きてしまったりする可能性が高くなるでしょう。このことは、実際に大手企業で採用を担当した父が言っていたことです。。。。

 

 

 

アイデンティティを変えようとする危険性(実体験から)

私は、前の記事にも書きましたが、高校入学から約8年間、自分の強みや個性など、自身のアイデンティティに違和感を感じて生きてきました。今振り返って考えると、その違和感を生じた原因は、合わない雰囲気の高校に入学し、無理矢理適合しようと無理してしまったからだと感じています。

 

 

私の母校は、少し変わった高校でした。おそらく県内一番か二番の進学校でした。そこに集まった子たちは、中学で優秀なのにマイノリティとして生きてきた人たちであったのに対して、私は、中学では生徒会長として華やかに生きてきた人でした。そのためなのか、どうにもなじめず・・・。他の生徒はみんな友達で、楽しそうに生活しているのですが、私だけは、その集団に入れず、むしろ誹謗中傷されたり、暴力を振るわれたりしていました。

 

 

母校は、いじめのない学校として有名で、そこで必ず一生仲良くできる友達ができると評判でした。そのため、なんとか仲間に入れてもらおう、なじもうと思い、必死に自分を変えていこうと決意しました。

 

 

「仲間になれない自分が悪い」「自分は変われる」「自分を作り替える」

こんな言葉をよくつぶやいていた記憶があります。

 

 

しかし、高1の文化祭で、自分に違和感を感じ始めてしまいました。

自分は誰なんだろ?何ができるんだろ?何でいつも排除されているんだろ?

どんなにみんなにこびへつらっても、文化祭の準備に関わらせてもらえず、教室の端にいると先生に注意され、みんなから笑われるという日々の繰り返しで、毎日トイレにずっとこもっていたからでしょうか。教室に居場所がなく、机もないため、ほこりだらけの教卓のなかで弁当を食べていたらからでしょうか。

夏休みに入る頃には、自分がおかしくなったと感じていたのをよく覚えています。

 

 

結局、みんなにあわせたところで、友達もできず、3年間いじめは続いたのでした。

ちなみに、高2の頃、突如としてアイデンティティを取り戻したように過ごせた時期があったのですが、そのせいか、集団によるいじめが悪化し、体育の授業でテニスボールを頭に打ち込まれたり、ラケットで殴られたりするようになったことがありました。

(その後遺症なのか、ときどき体がつよく揺さぶられるような感覚があります)そこで、トドメのように「わからせられてしまった」んですよね・・・。

自分は自分を持ってはいけない、周りに合わせてこその自分だ、と。

 

 

 

ありのままの自分で

合わないのに合わせようとすることは、無理です。

とりわけ、アイデンティティに関しては、それを相手のニーズに合わせようとすることは、できなくはありませんが、絶対にやめておいた方が良いです。

私は、合わない環境に自らを合わせようとした結果、8年という貴重な時間を失いました。もしこの記事を読んでくださっている方の中で、自分を無理に作ったり、まわりに合わせようとしたりしている方がいれば、即刻やめてください。

人生を棒に振る可能性があります。

 

 

このような経験があるからこそ、就活対策一般で言われる「求める人物像を意識してES・面接対策をしよう」という考え方がストレスになります。

別に求める人物像なんて、嘘ばっかりだと思うんですけれどもね。実際に、某企業の採用説明会に行ったら、採用担当の方が「マイ○ビに書いた求める人物像は、ちょっと違います」と言い出して、既に発表されていたそれとは大きく異なるものを提示してきたことがあります。結局は、面接官の好き嫌い、につきるのだと思います(これは、私が大学院でお世話になった先生の受け売りですが・・・)。

 

 

もちろん、求める人物像に合わせなくたって、就活がうまくいく人もいると思います。そういう人は、うらやましいです。

 

 

私の個人的かつ最大の問題として、団体・組織になじめる人間ではない、というものがあります。就活のキモは、組織風土になじめる人間か、というものだと思います。私には、そのように思わせるような強みも、アイデンティティも、経験もないんです。

高校時代、よく「ガイジ!」とクラスメイトから言われましたが、本当にそうかもしれませんね(ちなみに、「ガイジ」なんて、偏差値70こえの高校生が言うこととはにわかに信じがたいでしょうが、本当によく言われました)。

 

なんというか、私は、開拓者であったり、改革者であったりする気質が強く、両親や好意的に接してくれる人たちからは、統率力がある、といわれます。

また、自分でいうのもなんですが、個性的なところもありまして、人と違うことをするのが好きです。人がまだやってないことを見つけてやるのも好きです。だからこそ、なかなか既存の組織に受け入れられにくい、ということがあります。

 

 

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大学院修了後の就活は、過去の8年間を失った経験を踏まえて、あまり自分を求める人物像にあわせにいかないよう心がけています。しかし、まぁ・・・結果はダメです。書類通過率は、現在20%です。

書類は通らないわ、受けられる企業も多くないわ、エージェントの掌の上だわ・・・という感じで、現在絶賛八方塞がり状態です。

 

とはいえ、自分を保てないと、就活、さらには、人生はうまくいかないような気がしています。

 

というのも、就活に疲れ、「自分」がなくなると、向いてもいない仕事をエージェントから勧められて応募して、うっかり就職できた暁には、向かない仕事を合わない環境で続けることになりそうだからです。

そして、また「魔の8年間」に戻る可能性が高く、今度こそ、自力で「自分」を取り戻すことができないでしょう・・・。

 

 

この記事のまとめ

就職活動のストレス=自分の認識している強みや個性を、企業の求める人物像に合わせようとすること、合わせるために解釈を変えること。

ストレスに感じる理由は、自身の自覚したアイデンティティについて、無理矢理その認識を変えようとすることは、自分を見失う原因になるから。